罰したければ罰せよ!?毒ぶどう酒事件再審請求棄却。 [時事問題:未分類]
日本は閉じられた小さな島国です。民主主義という名前の制度は入れたものの世界でも人権が守られてないことで有名です。
今回の判決は小さな島国であるがために起きた判決だと言えます。
どんな証拠を持って来ても検察の挙げたもの以外は取り上げず、数十時間の監禁により得られた自白が信憑性が高いという憲法も法律もあったものではない、大岡裁判かと思うほどの恐ろしい指摘を行いました。
そもそも刑法は、「疑わしくは被告人の利益に」が基本にあるにもかかわらず、「無罪であることが明らかな証拠とは言えない」という、本当に司法試験を受かったのだろうかと疑問に思うようなことを平然と言ってのけました。
憲法により、第一の証拠が自白であってはならないのは当然のこと、その自白も、科学者による99%間違いであるという書証が提出されたのにもかかわらず、真犯人を捕まえてこない限り検察が連れて来た被告人を死刑にするというどのような現代法からも導き出されない恐ろしい判決です。
これを考えるに、日本人独特の閉じた社会が原因にであるのです。ニーチェの言う「なぜ隣人の言うことに耳を傾けるのか?2~300マイル離れただけでもう拘束力を失うような見解に自分を縛り付けるのは田舎地味ている」にわかるとおり、日本は2~300マイル離れることができないため、田舎染みた隣人の言う事に自分の見解を縛り付けなくてはいけないのです。
今回の件に当てはめてみると、事件が起きたために、閉じた社会のために誰かが犯人でなければいけないのです。外から人が来ることなどないのですから。
もしも無罪の判決が出ようものなら、今まで犯人だと信じていた人間が犯人でないこと以上に問題なのが、別に犯人がいるということなのです。つまり、日本人は閉じた小さな社会に住んでいるため、犯人が祭り上げた人間の他に自分たちの中にいるという事実自体が困るのです。
これが、国連からも毎年意見書や警告文が提出される、日本おける大きな人権問題です。検察が作ったシナリオ通りに犯人を捕まえ、証拠がなかろうが否認しようが裁判所は検察の作ったシナリオ通りの裁決を下す。
田舎の小さく閉じた社会が生んだ悲劇は未来永劫続いて行くのでしょうか。
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